御船千鶴子とは?千里眼騒動の真相に迫る!(?)透視能力者、御船千鶴子の生涯と「千里眼」事件
24歳で謎の自殺を遂げた透視能力者、御船千鶴子。難聴を抱えながらも千里眼として脚光を浴びた彼女は、激動の明治時代に生きた。日露戦争での予言的中、三井財閥からの依頼、東京帝国大学での実験… その能力は本物か、否か? 成功と失敗、疑惑と嫉妬、そして最後に見出したものとは? 千里眼騒動の真相に迫る、衝撃のドキュメント。
千里眼の能力開花と社会への影響
御船千鶴子はどんな能力で注目を集めた?
千里眼と人体透視
本章では、福来友吉博士の催眠術研究と、それによって注目を集めた「千里眼」事件について解説します。

✅ この記事は、催眠術研究の先駆者である福来友吉の生涯と業績について、特に「千里眼」事件に焦点を当てて解説しています。
✅ 福来友吉は、東京帝国大学で催眠術の心理学的研究を行い、日本で最初の体系的な催眠研究書を著しました。
✅ 福来は、催眠術によって「透視」能力を得たとされる御船千鶴子に注目し、その能力を実験的に検証しようと試みました。この事件は、心理学史において「千里眼」という超常現象が社会的に大きな注目を集めた最初の例として知られています。
さらに読む ⇒国立国会図書館―出典/画像元: https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/13/1.html福来友吉博士と御船千鶴子の関係を中心に、彼女の能力がどのように社会に受け止められたのかが分かります。
実験の様子や、彼女を取り巻く人々の反応など、興味深いですね。
御船千鶴子は、生まれつき難聴で、集中力と強い観音信仰を持ちながらも、感情の起伏が激しく、人付き合いが苦手な一面もありました。
夫との別れを経て、義兄の清原猛雄から催眠術を受け、17歳頃から「千里眼」の能力を発揮し始めました。
日露戦争中の商船遭難事件の予測的中が地元で話題となり、清原の「診療所」では、千鶴子の「人体透視」と猛雄の催眠術を求める人が相次ぎました。
三井財閥からの依頼で石炭の鉱脈を透視し、大規模な石炭層の発見に貢献したという逸話も伝わっています。
千鶴子の評判は全国区となり、東京朝日新聞などでも大きく取り上げられました。
東京帝国大学や京都帝国大学の研究者も興味を示し、透視実験が行われました。
実験では、封印された茶壺の中の名刺や漢詩の一句などを言い当てることができた一方で、失敗することもありました。
千鶴子の存在は、当時の社会に大きな影響を与え、マスコミは各地の「千里眼」とされる人物を次々と取り上げるなど、センセーショナルな話題となりました。
なるほど、社会的な出来事と個人の能力が絡み合い、大きな出来事になったんですね。彼女の運命が、とても気になります。
透視能力の真偽と悲劇の結末
御船千鶴子の透視能力は本当に存在したのか?
存在しなかったと考えられる
ここでは、彼女の能力の真偽を巡る議論と、その悲劇的な結末について詳しく見ていきます。
公開日:2020/07/10

✅ 100年以上前に日本で発生した「千里眼事件」は、千里眼を持つと主張する2人の女性が、その能力の真偽を巡って学者の前で公開実験を行い、最終的に一人が命を落とすという、センセーショナルな事件だった。
✅ 事件の中心人物は、御船千鶴子という女性で、彼女は幼い頃から聴覚障害を持ち、視覚やその他の感覚が鋭く、心も繊細だった。
✅ 千鶴子は夫である清原猛雄によって催眠術をかけられたことで、千里眼能力を覚醒させ、遠方の物事を透視したり、病気を診断したりすることができるようになった。その後、千鶴子は千里眼を使って医療行為を行い、多くの人の注目を集めた。
さらに読む ⇒風傳媒出典/画像元: https://www.storm.mg/lifestyle/2827459透視実験の詳細と、その結果について解説されています。
彼女の能力に対する疑念や、その後の彼女の運命が描かれており、非常に考えさせられますね。
御船千鶴子は、24歳で自殺した透視能力を持つとされた女性です。
彼女は難聴を持ち、繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたとされています。
22歳で結婚しますが、夫の財布からなくなった50円が義親配偶者の親の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こし、離婚しました。
その後、義兄の清原猛雄から透視能力があることを指摘され、修練を始めました。
日露戦争の際に第六師団が撃沈された軍艦・常陸丸事件にたまたま乗っていなかったことを透視したり、三井合名会社の依頼で万田炭鉱を発見したりするなど、様々な透視能力を見せました。
彼女の評判が広がり、京都帝国大学や東京帝国大学の学者たちが研究を始めました。
しかし、透視実験では、彼女は常に観察者に背を向けて透視し、側面や正面からの観察は頑なに拒否していました。
また、成功した場合は常に糊付けで封印された容器が多く、10分近く時間をかけていることから、疑わしい点が多く指摘されています。
最終的には、鉛管の中の文字の透視実験で、用意された文字を透視していたことが発覚し、彼女の透視能力は疑わしいものとされました。
彼女はその後、長尾郁子の念写を非難する記事を見て、失望と怒りを感じ、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ち、自殺しました。
地元では父親との金銭的なトラブルによるものだと見られていますが、一般的には、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したと言われています。
しかし、彼女を非難する内容の報道は、彼女が自殺する時点ではされていませんでした。
彼女の透視能力の実在は極めて疑わしく、様々な疑わしい点から、彼女の能力は実際には存在しなかったと考えられます。
彼女の人生は、本当に悲しいですね。科学的な根拠を求めることも大切ですが、彼女の心の苦しみも理解してあげたいです。
御船千鶴子の死と「千里眼」ブームの到来
御船千鶴子の死因は何だったのでしょうか?
服毒自殺
本章では、彼女の死後と、「千里眼」ブームについて解説します。

✅ 御船千鶴子は難聴の影響からネガティブになり、結婚後も夫の転属や姑とのトラブルに見舞われ、22歳の時に透視能力に目覚めた。
✅ 千鶴子の透視能力は、夫の財布から紛失した大金の行方を言い当てたことから始まり、姉の夫の催眠術の影響で能力が飛躍的に向上した。
✅ 千鶴子は公開透視実験で成功を収め、透視能力ブームを巻き起こしたが、後にトリックが発覚し、バッシングを受けた結果、自殺した。真相は不明で、千鶴子の透視能力が本物だったのか、それともトリックだったのかは謎である。
さらに読む ⇒エキサイトニュース出典/画像元: https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_182976/彼女の死後、社会にどのような影響を与えたのか、そしてその後「千里眼」ブームがどのように展開したのかが分かります。
彼女の死が単なる個人の悲劇に終わらなかったことが印象的です。
御船千鶴子さんは、1911年1月19日に24歳で亡くなり、死因は重クロム酸カリウムによる服毒自殺でした。
自殺の背景には、超能力検証の失敗による世間の批判や、父親との確執があったと言われています。
御船さんは結婚はしていましたが、夫の河地可謙さんとは彼女の超能力が原因で離婚しており、子供はおりませんでした。
御船さんの墓所は熊本県宇城市にある六地蔵公園内にあります。
1909年、御船千鶴子という女性は、透視や念力といった゛超能力゛を持つとされ、「千里眼」として注目を集めました。
彼女は東京で、山川健次郎、田中館愛橘、呉秀三など当時の著名な学者たちの前で透視能力を実験で披露しました。
千鶴子は、鉛で包まれた紙片の中身を透視する実験を行い、見事的中させました。
しかし、山川博士が用意した紙片には、千鶴子が透視した文字は書かれておらず、謎となりました。
この不可解な出来事は、後に解明されることになるのですが、当時の学者たちや世間の注目を集め、千鶴子の゛千里眼゛は大きな話題となりました。
その後、千鶴子以上に優れた「千里眼」を持つとされる女性も現れ、彼女たちの運命は大きく変わっていきます。
1909年(明治42年)、東京朝日新聞は、熊本出身の河地千鶴子(23歳)が「千里眼」と呼ばれる超能力を持っていると報道した。
千鶴子は、封筒の中の物体を透視し、その内容を書き出すことができるとされ、当時の京都大学総長・木下廣次がその能力を実証したと記事は伝えている。
木下は、千鶴子に治療を受けた際、患部の状態を把握し、病状を改善する効果があったとも語った。
千鶴子の能力は、当時の人々にとって驚きをもって受け止められ、その後、新聞で大きく取り上げられるきっかけとなった。
この出来事は、日露戦争後の日本社会が科学技術の発展と共に、超常現象への関心も高まっていたことを示すものであり、後の「千里眼」騒動の始まりとなった。
彼女の死後も、様々な議論が巻き起こったんですね。科学的な検証の難しさや、人々の好奇心、そしてメディアの影響力について考えさせられます。
御船千鶴子の生涯を通して、超能力や科学、そして社会の複雑さを感じました。
彼女の運命は、現代にも通じる教訓を与えてくれますね。
💡 御船千鶴子は、透視能力を持つとされた女性で、明治時代に社会的な注目を集めた。
💡 彼女の能力の真偽を巡る議論は、科学的な検証の難しさを浮き彫りにした。
💡 彼女の死は、超能力ブームを巻き起こし、社会に大きな影響を与えた。